対馬古写真図鑑 (写真No.75) 02-picts-023.jpg

この写真に関する情報をお寄せください。

寄せられた情報

■対州丸の写真手元にありますので
限定打たしました 電気もなかった対馬を思い出します(冨谷 篤)
■ひらやま様こんにちは
私は厳原の国分で生まれ、高校を卒業する頃は天道茂でした。
鶏知に初めて行ったのは中学生のときです。尾浦から鶏知が行動範囲だったです。
對州丸ではなくて大衆丸ですね。
船の総トン数は測定方法が2種類ある、ということを、子供のころ聞いたことがありますが、大衆丸は1000トンを少し切れるくらいだったように記憶しています。
あの船底の三等船室、二等船室、ソファがあって真っ白なカヴァーがかけてあった船室は一等船室だったのでしょうか。
時々思い出して、船酔いしそうになります。(三浦轍司)
■こんにちは対馬を離れて永いですが懐かしいです。三浦様は厳原の方ですか?私は中学まで鶏知にいました。
三浦様の別のコメントにあるようにこちらが 600tくらいの新しい対州丸ではないでしょうか?
http://marugoto.littlestar.jp/old_pictures/html/pages/04-picts-001.htm
こっちが1000tくらいの古い船ですね。對州丸か 大衆丸だったのか記憶が定かでありません。
http://marugoto.littlestar.jp/old_pictures/html/pages/02-picts-056.htm(ひらやま)
■ 三浦様 平山様 こんにちは 島を離れてながいですが懐かしくおもっております。私は中学まで鶏知におりました。こっちの掲示板に気がつかずアルバムの方から同じ内容を二重に投稿していましました。ごめんなさい。旧「たいしゅうまる」は小さいながらもフォワードサロンがあり大変眺めがよかったです。船名はどっちでしょうか? 本船は対馬航路を引退した後、下関<>釜山航路に移ったようです。
現在は東京在住で離島航路が懐かしく伊豆諸島航路に乗船することがあります。フェリー化をかたくなに拒み まだ貨客船のままですが、「さるびあ丸」は5000t近ありレストランまである快適な船です。対馬との違いに悔しく思っております。(ひらやま)
■ 当時の時刻表をお持ちですか。それはすごいですね。
壱岐での停泊が郷ノ浦、勝本、芦辺のいずれかでしたね。芦辺では沖に停泊して艀がやって来ていました。
この、船の名前の件、私も気がかりで、7月に厳原で、当時、九郵に勤務されていた方にお伺いしたのですが「うーん、辞めて30年にもなると、咄嗟に聞かれても、何が何だか・・」と言う返事しかいただけなかったのです。
やはり「大衆丸」だったのですね。写真の#75、#103、#107については、私のミスで、削除なり名称の入れ替えなりを管理人さんにお願いします。
ついでに#104,父上が壱州丸の船長さんだった「F君」は「k君」の間違いです。管理人さん、お手数ですが訂正をお願いします。
平山様、ご指摘ありがとうございました。(三浦轍司)
■ 何回も乗ったけど、残念ながら小学生までだったから証拠写真はないなあ。間接的な証拠なら、壱岐対馬航路の時刻と就航船「大衆丸、壱州丸」と書いた交通公社発行の古い時刻表なら持っています。(平山)
■ 私も大衆丸と船尾に書かれていた記憶があるのですが、母は「私の友人の亭主がこの船のボーイさんで、友人と船に遊びに行ったけれど、對州丸のはずだ」と言い張るのです(長生きが迷惑な例ですね)。
でも、どう考えても、大衆食堂の、「大衆」だったと思っています。
船のお尻の写真の出現を待っています。(三浦轍司)
■ 初めまして。偶然ですが同じ名前ですね。母が対馬出身なので幼少の頃(私は団塊世代です)よく乗りました。懐かしいな。名前は「大衆丸」です。他に男島丸(前の投稿にありましたね)も博多−厳原間を運航していましたよ。大衆丸は昭和38年頃までだったと思います。その後が対州丸、続いてあそう丸ですかね。(平山)
■対州丸の前の船 こちらが大衆丸ですね。私も對州丸と思っていましたが文献などで大衆丸と書いてある例がおおいですね。本当はどっちでしょう? 九州郵船では「浅生湾」が一番好きですがすぐにフェリーにかわってしまいました。写真はありませんか?
http://marugoto.littlestar.jp/old_pictures/html/pages/02-picts-056.htm(ひらやま)
■煙突が2本ということで大衆丸だとおもいます。対州丸ができる前の割と大きな船です。800t 
対州丸は後部に煙突が一本だったとおもいます。(ひらやま)
■対州丸の出航風景。
デッキが二段。救命ボートが両サイドに二艘、煙突も2本だったと思います。
この船で運ばれる途中で亡くなられた友人の父上、他にもこの船で急死された友人の父上のことを思い出して、乗船はちょっと苦手でした。(三浦轍司)